
ネタバレしていますので注意してください。
⚠️感情をグチャグチャにされた物語だった
私はAudible(オーディブル)で人質の法廷を聴きました。30時間を超える物語で、初めてこんなに長い朗読を聴いたにも関わらず、疲れは一切感じなかったです。
むしろ逆。聴き終わった後に、爽快感、悔しさ、無力さ、悲しみ、一筋の光が混ざり合ったような胸に込み上げてくるものがあって、思考がグルグルと回転を始めました。
ただ何かを考えようとしたのですが、上手く考えがまとまらないのです。思考と感情をグチャグチャされてしまって考えがまとまらなかった。
警察、検察による自白強要、裁判官が令状発布自動発券機の状態、裁判効率化の弊害として自白が強力な証拠になっていること、そして勾留延長、検察は自分達に有利な証拠しか提出しない、刑事弁護士は少ない資源で依頼人を防御しなければいけないことなど。
考える対象が広範囲で、さらにそこには巨大で強力な『国家権力』が立ちはだかっています。しかし今までの私はそういった異常な世界と1mmさえ接点がありませんでした。
だからどこか他人事で私とは一切関係のない、遠い国で起きている紛争、戦争、飢餓そんな感じのように錯覚していました。
しかし間違いなくその国家権力は、いつも私のすぐそばに居るのです。たまたま私は運良く、その狂気に飲み込まれなかった、ただそれだけだった。
物語の終盤、主人公の女性弁護士、川村志鶴(かわむらしずる)が最終弁論中、警察、検察、裁判官が作り出す冤罪についてこう語っています。
『危機に瀕しているのは増山さん一人の自由と生命だけでしょうか?いいえ、違います。間違いを見過ごし許してしまえば、この国に住む全ての人達にまた降りかかってもおかしくありません。あなたやあなたの大切な人達だって例外ではないのです。』
このセリフを聴いて、私はすぐにネットで冤罪事件を再度調べてみました。
有名な冤罪事件は下のとおりです。
袴田事件(はかまだ事件)
1966年に静岡県で一家4人が殺害された事件で、袴田巖さんが犯人とされ死刑判決を受けました。警察による長時間の取り調べで自白を強要されたほか、証拠とされた衣類が捏造された可能性が高いとされています。
2023年に再審開始が確定し、2024年9月に静岡地裁で無罪判決が言い渡されました。事件発生から58年を経ての無罪確定。
大川原化工機事件(おおかわらかこうき事件)
2020年、横浜市の化学機械メーカー「大川原化工機」の社長らが、生物兵器に転用可能な機器を中国へ無許可輸出したとして逮捕、起訴されました。しかし、犯罪そのものが成立しない事案で、捜査や起訴が違法とされました。
勾留中に1人が適切な治療を受けられず死亡、その後、全員の無実が証明。
志布志事件(しぶし事件)
2003年の鹿児島県議選をめぐり、公職選挙法違反(買収)の容疑で13人が起訴されました。警察は違法な取り調べ(「踏み字」など)を行い、自白を強要しました。 起訴された13人のうち1人は裁判中に死亡しましたが、残る12人は全員無罪となりました。違法捜査に対し賠償命令も出されている。
郵便不正事件(ゆうせいふせい事件)
2009年、当時厚生労働省の局長だった村木厚子さんは、障害者団体を装った「凛の会」に対し、不正に郵便料金割引証明書を発行したと疑われ164日間勾留。しかし彼女は一貫して無罪を主張。2010年9月裁判所は証拠の信頼性が欠けると、無罪を下す。
これは世間の注目を集めた、分かっているだけの冤罪事件です。当然、世間には知られずひっそりと闇に葬られた冤罪があるはずです。
なので生成AIの力を借りて、認知されていない冤罪事件数を推測してもらうと、下の画像のようは回答を得ました。

この回答を信頼するならば、冤罪事件は遠い国で起きている現象じゃなく、もうすぐそこ、私達の生活のすぐそこで大きな黒い穴を空け、飲み込んでやろうと待っている、そう言っていいはずです。
何度も何度も何度も同じ過ちを繰り返す警察、検察、裁判所には、恐ろしいほどの自己顕示欲ならぬ、組織顕示欲があり、自分達の権限、権威を守るためなら、無罪の人を罪人にすることなど何とも思っていない、そう思わざるを得ないのです。
さて、前振りが長くなりましたが、フィクションである人質の法廷のレビューと考察をしていきましょう。
✍️作品概要と著者紹介
人質の法廷は2024年7月に小学館から発売された法廷サスペンスですが、個人的に社会派小説の側面も強く持っていると思っています。
著者の里見蘭氏は、1969年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、編集プロダクション所属のライターを経て作家デビュー。2008年には『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。
人質の法廷には、実在する女性弁護士をモデルに、取材、構想に8年を費やし完成させた物語です。フィクションを通じて現代社会の日本が抱える刑事司法制度の闇をえぐり出し、読者に叩きつけてくる強いメッセージ性が込められた作品でもあります。
🚀主な登場人物
川村志鶴(かわむらしずる)
主人公。弁護士1年目。学生時代に同級生を事故死で失う。その歳に警察、司法に対して強い不信感を持つことに。女子中学生連続死体遺棄事件の容疑者の弁護人を務める。
増山淳彦(ますやまあつひこ)
女子中学生連続死体遺棄容疑の被疑者、その後容疑者、被告となっていく人物。40代男性で現場近くに住む。母親と同居し2人暮らし。過去に犯罪を犯した経歴を持つ。無実を主張するが警察の強引な取り調べを受けることに。
田口司(たぐちつかさ)
志鶴の先輩弁護士で、志鶴と共同弁護で増山を弁護することに。冷静で現実的なアドバイスをする田口。元刑事弁護士だった彼には、悲しく苦しい過去がそこにはあった。
都築賢造(つづきけんぞう)
法曹界でも名が知れた弁護士。志鶴が信頼と尊敬を持っている人物。法曹界の酸いも甘いも知り尽くし志鶴と伴に増山の弁護をしていくことに。
増山文子(ますやまふみこ)
淳彦の母。息子が冤罪に巻き込まれたことで、世間から言われ名の無い誹謗中傷を浴び続ける。それでも息子を献身的に支える人物。
📖あらすじ
女子中学生連続死体遺棄事件が発生。捜査線上に被疑者40代男性、職業、新聞配達員が浮上する。名前は増山。彼は任意で警察署に連行されるが、そのまま人質司法の穴に落ちてしまうことに。当番弁護士だった新人女性弁護士、川村志鶴が増山の弁護を受任。
そこから彼女VS警察、検察、裁判所の合同体との長い戦いが始まる。
逮捕後、増山は独身、非正規、批判されがちな性癖、偏見を持たれがちな容姿、このことから世間で異常者として視線を浴びる。メディアもスクラムを組んで増山が犯人であるかのように報道し、有罪であるかのような空気を作り上げていく。
その頃、警察所内では違法な取り調べを続ける刑事達。証拠の残らない取調室で、連日繰り広げられる増山への精神的拷問。増山の無実を証明するために志鶴は国家権力と向き合い、言論の戦場、法廷で巨大な敵との戦いに身を投じていくことに。
被告の有罪率が99%を超える日本の刑事司法の中で、志鶴は増山を冤罪から救い出すことはできるのか?
そして志鶴が澄み渡る声で滔々と語る『正義』に、あなたは一体何を感じるだろうか!?
😨警察、検事による精神的拷問
Audibleで人質の法廷を聴いた私としては、この記事を読んでいる人に一点だけ注意をした方がいいかな、と思うことがありました。
それが警察、検事による取り調べです。共感力が高い人は、増山が精神的拷問を受けている描写に辛いと思うかもしれません。結構な長さで延々と増山を拷問し続け、やってもいない事をやったと言わせ自白調書を作成していきます。
密室空間で、国家権力を任された数名の警察官、検察官が、増山の精神に襲い掛かり破壊していく描写はさすがの私も脳に亀裂が入りました。
もちろんこれはフィクションですので現実ではありません。ですが、聴いていると警察官、検察官の横暴さが凄まじく、完全に法治国家とは言えない状態です。基本的人権、平和、平等とかお前ら子供たちの前で語れるのか?なんて思ってしまった。
例えて言うならば、錆びて歪んだ悪魔の剣を振るってくる暴漢たちです。
ただ現実の日本の刑事司法制度から冤罪が生まれている事実がある以上、この物語を通じて警察、検察の取り調べはこのように行われている、と思ってしまうのです。
🏛️自動令状発布マシーンって良い響き
私はこの一文が妙に心に残っています。検察がボタンを押せば、自動で令状が発布される、自動令状発布マシーン。志鶴が裁判所を痛烈に皮肉った一言です。
物語中では志鶴が増山の釈放を求めて裁判所を訪れるわけですが、裁判官は勾留の延長を認める令状を発布します。その理由が、『逃亡、証拠隠滅の恐れあり』ということです
しかし、増山の人物からは逃亡する資金、人脈、智慧、覚悟があるとは思えない。それに増山はとても賢くない。これは物語を聴いて、全体を見渡せる読者視点では十分わかるわけです。
なので釈放してやれよ、となるがそうはならない。
裁判所は、検察からの請求で裁判官が審議して回答を出す。ちなみに裁判官が立ち会って、容疑者に対して事情聴取をするかというと、そんなシーンは一切なかった。
俗にいうお役所仕事、と呼ばれる対応で勾留延長を認めているわけです。物語中でもそのような事はない、と裁判官は否定しますが、実際やっていることは自動令状発布マシーン状態なわけです。
実社会に置き換え考え、自動発布マシーン状態の裁判所を変えるには、どのようにするのか?どんな手続きをするのか?そもそも自動発布マシーンだと裁判所は認めるのか?と考えていくと、真っ黒なトンネルの中を彷徨い続ける感覚に近いです。
あまりにも国家権力が巨大過ぎて、ただ踏みつぶされるのを待つばかり、そんな想像すらしてしまいます。
そしてこの物語(フィクション)を聴いていると、裁判所が法の番人ではなく、警察、検察に人権侵害のお墨付きを与えるサポート団体のような錯覚に陥ってきます。
実際物語中では、検察を贔屓しているのが随所に表れています。当然読者は腹立ちますよね。自分のことじゃないのに、感情が逆立ってカッ!と体に火がつく感じがします。しかし、この程度で腹を立てていては、志鶴先生に叱られてしまいそうですが。
それだけ、この物語の展開が上手く各登場人物のキャラが立ち、そして何よりも取材がしっかりされているんだろと、想像してしまった。
できれば、このまま学校の教科書に載せてはどうだろうか?(無理だけど)
❇️田口弁護士の暗い過去
田口はもともと刑事弁護士を志し、司法試験を受け弁護士になった人物だった。そして彼は弁護士として2年目の被疑者事件で挫折することになる。
自宅兼店舗の放火と詐欺の疑いで逮捕された飲食店経営者の弁護を受任。田口曰く完全な冤罪事件だった。
田口により黙秘を勧めたが、被疑者は捜査機関の自白強要により落ちた。被疑者は13年の懲役を受けることに。刑期を終え出所した彼は全てを失っていた。
妻と子供、仕事、財産、社会的信用、全てだ。そして出所して14日後、彼は自ら命を絶った、それと同時に田口の正義の剣も砕けた。だから田口は刑事裁判は取り扱わず民事だけになったのだと。
しかし、田口は変わった、いや本来の田口自身を取り戻せた。それは紛れもなく志鶴の影響があった。彼女には澄み切った正義があり、そして聡明な頭脳と弁を兼ね備えていた。正義の無い弁護士なら、実社会ではいくらでもいると聞いたことがある。
お金の為に活動する弁護士は否定しない。人は所詮そんなものだ。がしかし、それだけでは世の中が荒み息苦しさが増し、社会全体は地獄になる。だからこそ、優しさ、道徳、希望、強さが必要なのだ。
志鶴にはきっとそれらがあった。そして田口の琴線に触れた。物語の第八章の最後のシーン、検察側のDNA鑑定が弾劾された際、検察側が追加証人、再鑑定を裁判官に要請するところだ。田口はそれに激怒しあの冷静だった田口とは180度違う、法廷中に響き渡る正義に満ち溢れた弁を轟かせた。
個人的に圧巻だったシーンの1つでもあります。
田口の砕けた正義を復元させたのは、やはり志鶴だと言って良いはず。彼女の澄んだ正義と優しさ、決して権力に怯まないその姿、依頼人を最後まで信じ抜く強さ、それを田口は強く感じたのではないだろうか。だから彼は内面から火柱を立ち上がらせ、炎のようにあの弁を轟かせたのではないだろうか。
田口の『異議あり!』あれはホントかっこ良かった。
ちなみに私自身、最初から田口には目をつけていた。あいつは間違いなく『ええ奴』だとね。ズバリだったのでは嬉しかったです。
💥警察、検察はなぜ冤罪に気付けないのか?
物語の中で、志鶴が最終弁論の中で警察、検察が悪意を持って増山を犯人に仕立てたのか?と裁判員に問うシーンがあります。志鶴はこう続けます。いいえ、彼らは善意と正義感に駆られそうしたのです、と。しかし、そこには大きな落とし穴があると志鶴は語ります。
強い正義感を持つが故に、自分達がやっていることが正しいと信じ込んでしまうと。
私もそう思いました。相手が悪で、自分が善の二元論の罠に陥ると、その思考から離れられなくなることはあります。
しかもそこに強い感情が伴うと、自分達のやっていることを強く正当化してしまい、『ひょっとしたら間違いかもしれない。』という批判的な思考が生まれ難くなる。
個人でもこういった罠に陥るのだから、警察、検察という巨大な組織ではその傾向が強くなるのではないだろうか。もし一人の刑事が『これはおかしい』と考えても、組織の意見と相反すれば黙っておくのが人間だろう、そう思っています。
これは警察組織だけでなく、民間組織でもそうだ。上司や会社の意に沿わないものは冷遇の憂き目に合うのが常だ。
仮にそうならば、警察組織という強烈な縦社会で上の判断に異議を唱え、組織の中で居場所を無くせば左遷が待っているのは明々白々です。
当然、出世の芽も摘まれることになる。
だから反論を言えないのだ。人間は皆自分が可愛いから。だから組織が正しいと信じる道へ突き進むしか出来ないのではないだろうか。
だからこそ、理想論を語れば警察、検察、裁判所が完全に独立しお互いを監視し合い、冤罪を生まないような、人質司法だと揶揄されないような関係を作らなければダメなはず。
しかし現実は違う。やはり皆自分が可愛いのだ。なぜなら人間は皆弱い。本当に弱い生き物だと痛感する。そんな弱い人間が集まる集団が保身に走るな、というのが無理な話である。
しかし、誰かが暴走を止めないといけない。その為には、やはり考えるしかないのではないだろうか。
冤罪のことを一人でも多くの人が知り、それを忘れないこと、そして考え続けること。それが何かを変えるキッカケになるのではないだろうか。
🟢最終章、22分18秒間ずっと震えた
『人質の法廷』を聴いてみてほしい。ダラダラと紹介するよりもまず聴いて欲しい。余計な知識なく聴いて欲しい。法律の知識とか司法の仕組みとか、そういった情報は知らなくてもいいです。
聴いてあなたが何を感じ、どう考えるか、それがすごく重要な気がするのです。
そして志鶴がラストのラストまで語り続けます。そこには綺麗ごとでは済まない、正義とか平等とか、そんな耳障りの良い言葉では語り尽くせない『現実』がある。
その現実こそ、私達が直視しないといけない冤罪の本質ではないだろうか。