ネタバレしていますので注意してください。
🎹奏鳴曲(ソナタ)と物語の構成
奏鳴曲(ソナタ)、その名前は何度か聞いたことがあったけど、どんな意味を成すのか理解していなかった。良い機会だと思い、勉強してみました。
ソナタとは簡単にいうと、クラシック音楽の構造、配置、展開の仕方の1つ。
一般的には第3~第4楽章で構成されている。各章でテンポが違う。
ソロで演奏できる楽器(ピアノ・ヴァイオリンなど)、少数の楽器の為に書かれた曲。
第1楽章は速いテンポ
第2楽章はゆったりしたテンポ
第3楽章は躍動感
第4楽章はフィナーレ
奏鳴曲(ソナタ)とは、こういった曲構成になっているようです。
これを踏まえて、贖罪の奏鳴曲の物語の構成をみていきましょう。

第1章 罪の鮮度
御子柴が豪雨の中、濁流の中へ死体を遺棄し物語が動き出す。
第2章 罰の足音
御子柴、幹也、渡瀬など登場人物が揃い、物語の背景がハッキリし深まっていく。
第3章 贖いの資格
御子柴の医療少年院時代の話。悪辣な弁護士誕生が描かれている。
第4章 裁かれる者
法廷での争い、そして二転三転する真実と結末。
物語の構成も、クラシック音楽の奏鳴曲(ソナタ)に近い感じがします。特に第1、2、4はよく似たテンポで物語が進行していきます。第3章は、リズミカル、躍動感、と言うよりも、『誕生』、『再生』そういった言葉がピッタリな章でした。
タイトルにもある『奏鳴曲(ソナタ)』は、クラシック音楽の形式と合わせ、物語が進んでいく展開にされているのだと思います。
😭物語が示す『贖罪』とは何か?
この物語の核は以下の点だと考察しています。
・園部信一郎の死と御子柴礼二の誕生
・御子柴、嘘崎、次郎、里見、幹也の贖罪
化物だった園部信一郎は警察に捕まり、そして医療少年院の中で人間へと生まれ変わった。しかし、それは同時に、贖罪という十字架を背負う生き方でもある。
彼は御子柴礼二というプリズンネームをその後の人生でも使い、その命が尽きるまで贖罪をし続けなくてはいけなくなった。
そして、嘘崎、次郎、里見、幹也も、自分が犯した罪に対しての贖罪をしなければいけなかった。嘘崎と次郎は自分の死をもって。
里美と幹也はその後の人生を掛けて、何かしらの贖罪をしなければいけない。それが何なのかは読者の想像に委ねられている。
👀母親が息子たちに与えた影響を考察
私が気になったのは、母親たちと息子たちの関係です。
御子柴礼二
御子柴の母親は関東医療少年院に収容中、そして退院後も一切の交信は断っている。
嘘崎雷也
母に暴力を振るう父を殺し少年院に収容。しかし、その母に手紙で絶縁宣言をされ雷也は自殺をする。
夏本次郎
雷也が柿里から陰湿ないじめを受け、そして最後に自殺までしてしまったことから、柿里のことをとても恐れていた。自分もこのままでは殺されてしまう。その前に母に会いたい、その一心から脱獄しそして事故に合い死んでしまう。
死んだ次郎と対面した彼の母が瞼を腫らすほど泣いていた描写があり、息子の次郎の死を深く痛んでいるのが分かる。
安武晃
いじめを苦に自殺。御子柴がいじめをした加害者の弁護をしたことを逆恨みしている。里美は怒りと恨みで自身の身も心も焼き尽くしている。
東條幹也
先天性小児性麻痺を患っている。左手しか動かせず、話すことも、身体を自由に動かすことも出来ず、車いす生活。母、美津子を心の底から恨んでいる。そして、美津子は幹也を疎ましく思っており、自身の容疑を幹也になすりつける思惑だった。
⁉️なぜ母親に焦点を当てたのか!?
家庭環境がその子供に与える影響を描きたかったのだろうか。母親の愛情とその放棄。そして愛と憎しみ。
確かに現実社会でも、家庭内で母親の存在は父親よりも大きいように感じる。母親が優しく元気でいる家庭はそれだけで、その家族が幸せでいるようにも思う。
それだけ母親の存在と言うのは大きい。しかし、その母親の愛情が不足したり、もしくは育児の放棄があれば、やはりその環境下で生きる子供たちは、真っすぐ生きていくことは難しくなるのではないだろうか。
また、幹也のように知性は健常者でも体に重度の障碍があると、その家族が抱える負担は相当なものだ。これは実際に私たちが当事者にならないと、到底分からないような苦痛があるのだろうと考察します。
さらには、いじめを苦にして死んだ我が子を思う母。そしてその愛情が憎しみに変わっていき、母親自身も破綻してしまう姿。人間は弱く悲しい生き物だというメッセージ性を感じた。
物語の枠を超えて、実社会の問題や人間という弱い存在、そいったものが描かれているように思うのです。
📖小児性麻痺を患った男との話
彼は当時30代後半だった。
片目が斜視、右足が不自由で足を引きずって歩く、髪は薄く頭頂部は禿げていた。右上半身もぎこちなく、発話もできる。
知性も幹也と同じように健常者並みだった。
そして彼は就労できる施設に住んで、仕事と住まいはあった。
そんな彼と私は1年程度交流があった。その彼を見ていて私は『かわいそうだ』と思った。施設から出ることはあっても、その範囲はとても限られている。普段は近くのコンビニで買い物をする程度くらいだった。
そんな生活を彼は20年もしていたのだ。
彼はとても優しい男で、人を傷つける人間では絶対になかった。少なくとも私の知る限りではそういった素振りはなかった。
私はその彼にこう質問したことがある。『親や自分の人生を恨んだことある?』と。今思えばかなり失礼な質問だと思うが、どうしても知りたかったことで思い切って質問してみた。
彼はなんと言っただろう、この記事を書きながら思い出してみたが、ハッキリした回答はやっぱり思い出せなかった。
ただ、否定的なことは言ってなかったように思う。彼は自分の人生を受け入れているような、そんな発言をしたように記憶が語る。
そしてこの物語の幹也を想像したとき、私が知っている小児性麻痺を患った男の姿を思い出した。
ぎこちなく歩く彼。左に大きく振れて歩く彼。そして頭頂部だけが禿げたその後ろ姿。個人の頑張りでは乗り越えられない、人間の不平等さを痛感した。
そして東条幹也の心の中を覗き込んだとき、彼の絶望を少しだけ感じられた。彼が人殺しだろうが、なんだろうが、彼の地獄はその後も変わらないと私は思う。
父を殺し、母を憎み、会社も失うだろう、そして自分の負の言葉で自分自身を焼け尽くすだろう。しかし、彼の身体的特徴から贖罪は出来るのだろうかとも思った。
💥情熱が御子柴礼二に与えた影響
実際にヴェートーベン、ピアノ・ソナタ第23番「熱情」(Appassionata)を聴いて欲しい。
この曲を作った当時のヴェートーベンは、耳が聞こえ難くなり、作曲家としてそして人間としても、とても苦しんだ時期だと知った。
聴力が衰えることで音色が分からなくなるのではないだろうか?
ピアノの鍵盤を叩いても、自分が今聴いている音と、周囲の人間が聴いている音が違うという恐怖を感じたのではないだろうか?
それだけでなく、周囲の人間とコミュケーションが取り難くなり、孤独がより一層深まったのではないだろうか?
それは恐怖、不安、絶望、怒り、諦め、そういった感情が入り混じった心持ちになるのではないだろうか?
その中でヴェートーベンは『情熱』を作り上げた。そしてその曲を御子柴は聴いてしまった。
この曲に出会う前の御子柴、園部信一郎は共感力が欠乏した獣だった。14歳で幼女を殺害し、バラバラにするという常軌を逸した行動をとったことからも、彼は人間の皮を被った獣だったのだ。
獣だからこそ、逮捕後、刑事に『なぜみどりちゃんを殺したんだ?』と聞かれた時も、答えに窮したのだ。なぜなら彼は『ただ殺したかった』からなのだ。猫がネズミを殺すように、ただ殺したかったから殺しただけなのだ。
そしてその獣が、人間に生まれ変われるキッカケを与えたのが、この『情熱』だ。ヴェートーベンが絶望の中で作り上げたこの曲、そして一つ一つの音に御子柴は『生』を感じたのではないだろうか。
御子柴の全身を駆け巡る生の衝動に、彼は胸が高鳴り、体温が上昇し、自分の心の奥底に眠っていた『何か』が彼を人間へと変えていったのだろう。
何かとはきっと言葉では形容し難いものだと思う。なぜなら音楽とは芸術だ。芸術は頭ではなく心で感じるものだからだ。しかし園部信一郎だった頃の彼は、論理的で利己的な獣だった。
獣だからこそ本能だけで生きていた。しかしヴェートーベンの音楽が、彼に心を呼び覚ませたのかもしれない。生への熱い衝動が感情を呼び覚まし、心のボタンにスイッチを押した。
だから、彼が殺した佐原みどりに対し罪悪感に苛まれたのではないか。もちろん雷也、次郎の死に対しても彼は自分を責めることができた。
それは心があるから出来ることだ。
そして罪悪感は御子柴に苦痛を与える。365日24時間、逃がすことなく御子柴の精神を痛め続ける。延々に終わることの無い苦痛の日々に、頭の良い彼は考え続けたはずだ。ずっと、ずっと、何度も何度も考え続け、そしてこう考えるようになったではないか。
『今の自分に何ができるのか?』
きっとその答えにたどり着いたとき、彼は贖いの資格を手に入れることが出来たのだと私は思う。そして関東医療少年院の教官、稲見の言葉を思い出した。
自分以外の弱い者のために闘え。
奈落から手を伸ばしている者を救い上げろ。
綺麗ごとを並べる弁護士ではなく、獣を内に住まわせた悪辣弁護士、御子柴礼二の小さな礎が出来た瞬間ではないだろうか。
✅『僕は—』の続きを考察
御子柴が19歳で医療少年院を仮退院するとき、面談室で医療担当、教育担当がずらりと並ぶ場で彼は何と言ったのだろうか?
物語では『僕は—』で終わっている。その後の御子柴礼二シリーズを読んでいないので、今の私には分からないが、今の時点の情報を集めるとこう言ったのではないか。

- 磯崎来也は弁護士はお金になる仕事だと言っていた。
- 夏本次郎を守れず、その死に責任を感じた。
- 稲見の言葉がいつも御子柴の心の中に居る。
- 御子柴は自分が行った殺人を悔いている。
以上の情報からきっと彼はこう言ったのではないか。
『僕は強い弁護士になってたくさんお金を稼ごうと思う。そして自分のやり方で罪を償いたい』、と。
当たり障りのない言葉を吐こうとした瞬間、稲見、雷也、次郎、そしてさゆりが御子柴の脳裏をよぎる。だからきっと彼は本心を吐露したはずだ。
強くないと守れない。お金が無ければ正しさを全うすることさえ難しい。それでいて自分の中に贖いの背骨がないと悪に染まり挫けてしまう。
だから彼はお金をしっかり稼ぐ弁護士になった。それは結果的に悪辣な弁護士になるということだった。しかし彼は自分の正しさを全うすることが出来ている。そして彼の贖罪は懺悔という言葉ではなく、行動として示している。
一読者の考察として残しておこうと思う。
⚠️誰も救われない結末
安武里美は御子柴を刺し、自宅へ逃げ帰る。死んだ息子の仏壇の前で復讐を果たたことを報告。息子は喜びも悲しみもせず、ただ里美の手が血で染まっていた。
幹也は母を心底憎んでいた。父の人工呼吸器を停止させその罪を母に被せ、自分ひとりで保険金3億円を手にする予定だった。しかし、それすら全て母の手の中で計画されたことだった。彼は母親の呪縛から逃れることはできなかった。
😖美津子の腐った仮面
幹也の母美津子は、製材所の工場主任と不倫をしていた。彼と結託し夫を殺す計画を立て実行した。もちろん保険金そして工場を手に入れるために。しかし、渡瀬にその計画を暴かれその計画は破綻する。
美津子は集中治療室内の事件で、夫の彰一殺しの罪を問われた。しかし、美津子たちはこの事件の犯人を幹也になるように仕向けていた。当然幹也は自分が父を殺し、そしてその罪を母になすりつけ、保険金と工場を手にする計画を立て実行していたつもりだった。
しかしそれすら、母の思惑、筋書通りだったのだ。
一時不再理の条文を解釈すると、一度罪に問われ事件で判決が下れば、二度と同じ事件では裁かれないらしい。
つまり、集中治療室で事件で最高裁までいったのは、無罪を勝ち取るためだった。最後は幹也が本当に犯人だと暴露し、自分は罪から逃れることが目的だった。
そうすれば、美津子が工場主任の高城と結託して、トラックの荷台から資材が父に落下し死に至らしめる罪に問われることは2度とないから。
美津子が無罪となれば、当然保険金3億円を全部受け取れる上に、夫の死で工場の負債は無くなる。お金を産み出す資産(工場)も手に入れることができる。
だから、工場主任の高城は裁判所で御子柴と会ったときに、あれほど喜んでいたのだ。
しかしあまりにも悲しい東条家の親子関係だ。妻と子の2人から殺された父であり夫の彰一。
左手しか動かせない息子。そして腐った仮面をつけた母であり妻の美津子。本当に救いようがない結末だった。